小さい頃から宇宙のことを考えてるのが好きだった。
別に現実逃避とかではなく、この世界って何なのか知りたいという思いがあった。
小学生低学年の時、
私は親から『はれときどきぶた』という絵本を買い与えられた。
『はれときどきぶた』は、
ちょっと引っ込み思案なところのある主人公の少年が、
お母さんを驚かせるために「あしたの日記」を書いたところ、
それが現実になってしまう… という内容。
なぜ、親はこの本を私に与えたのかわからないが、
私は夢中になって読んでいた。
”空から雨ではなく、沢山のぶたが降ってくる”
空からぶたが降ってくるなんて考えたこともなかった私は、
子供ながらにわくわくしたのを覚えている。
”この世界は、人が想像できることは実際に起きる可能性があるのではないか”
こう考えるようになったのは、その頃からだと思う。
いや、実際にはありえないことなのだけど、
それでも色んなことを空想したり、文字や絵にするのが楽しかった。
小学5年生の夏休み、私は両親と祖父母と夕飯を食べていた。
私は、ふとみんなの顔を眺め、
”この人たちも、子供時代があったのかな”
と思って泣きそうになったことがある。
人は繋がっているんだ、
別に手を繋いでるわけじゃなくて、
想いが繋いでるんだ。
人に限らず全てのものは繋がっている。
こう考えるようになった。
その後、私は宇宙のことを考えるのが好きになった。
宇宙って何なんだろう。
未来って、過去って何なんだろう。
死んだらどうなるんだろう。
月明かりで照らされた天井の木目を眺めながら、
そんなことを考えては、夜更ししていた。
結局、答えなんてわからない。
仮に、人間や地球、そして宇宙を作り出した存在がいるとして、
その存在を作った、さらに上位存在は?さらに上には?
ゴールはない。
紙に描かれた二次元の存在が、私たち三次元の存在を認識できないように、
私たちは上位存在のことを認識できない。
それでも、考えるだけなら自由じゃないか。
そこには無限の可能性があるし、人間が想像できることは何だって実現出来るんだ。
なーんて考えてると、すぐにお腹が痛くなってくる。
胃や腸は、私が宇宙のことで悩んでることなんて知らない。
でも、私と胃腸は繋がっていて、私の想いが、胃腸の世界に干渉した。
胃腸はなぜかわからないけれど不機嫌になって、
その不機嫌が電気信号となって脳に伝わる。
そして脳は私に伝えてくるのだ。
”何かお腹いたいみたいよ”
って。
赤血球が人間の中で生まれては死ぬ存在だとすれば、
人間は宇宙のなかの赤血球みたいなものだ。
人は生まれては死ぬ。
人は自分以外の人が亡くなった時に心を痛める。
想いが繋がっているからだ。
もしかしたら赤血球だって他の赤血球が死んだら悲しいのかもしれないし、
人間にとっての胃腸のように、人間が心を痛めていたら宇宙の体調も悪くなるかもしれない。
全ては繋がっている。
はれときどきぶたを買ってもらったあの時の想いが、
いまだにこうやって受け継がれている。
想いは時間を超える。
だって、時間は人間が生み出した概念に過ぎないのだから。
あぁ、昔に戻りてぇ~ ←結局これ